ココロにツバサ属

日々感じたことを とりとめもなく

何故環境だったのか.1

20歳から子育てをしていて、学び始めたのは遅かった。

当時は経済力に不安があり、何か資格でも…と思ったのが学びの始まりだったと思う。

 

最初に取得した資格は医療事務だった。

興味や関心があったというよりは、持っていれば食べていけそうな資格という所で選んだものだった。

これが勉強熱に火をつけたように思う。

そんな医療事務の勉強は殊の外に面白かった。

世間知らずな20歳の自分だったけど、これを学ぶことで医療機関の仕組みや当時の点数制度など 社会の仕組みと言えば大袈裟だけど、医療という世界の仕組みを少なからず知ることができた。

勉強って楽しいじゃないか。

 

以降は機会を見つけては少しずつ色々な勉強をするようになっていった。

いよいよ働かなくてはならなくなって、始めに就いた職は金融・不動産業の会社だった。

それは医療事務とはまったく関係のない仕事だった。

 

当初は当然ながら医療事務の職を求めていたのだけれど、まともに高校も卒業していないような、母子家庭の自分を雇ってくれるような所には当然ながら?巡り合わなかった。

解決し難い人生の課題を消化できずに、社会からワープアウトしてしまっていた自分にとって、社会はなお非情に感じられた。

 

そんな自分を拾ってくれたのが、金融業の裏ボス的存在の社長だった。「事務員さんがやめて新しい人募集しているから行ってみ」と、知人に言われたままに、仕事ほしさに、仕事内容もよくわからずに訪れたのだった。

 

社長が履歴書に書いた字を気に入って下さり、雇ってくださることになった。まだ幼かった私に習字に通わせてくれた母に感謝せざるを得なかった。自分では母から自立して自分の足で生きてきたつもりでいたけれど、結局は母が身に付けさせてくれた技術に救われたのだった。凝り固まっていた何かが寛解し始めていた。

 

その会社で仕事の基本を叩きこまれた。電話の出方、接客の仕方、手紙の書き方、複式簿記の記帳の仕方、金利の計算の仕方、借用証書の書き方、信用情報の取り扱い方、公正証書 委嘱委任状の書き方、抵当権の設定の仕方、取得税の計算の仕方…金融も不動産も扱っていたこの会社で覚えることは他にも沢山あった。

 

3年間、無遅刻無欠勤で働いた。社長も奥さんも息子さんも本当に良くしてくださり、人間関係には何ら問題なかったのだけれど、大金を運んだり、高齢者といえども取り立てを迫らなければいけない側の立場というのは、自分にはとても重たいプレッシャーがあり、のしかかる重圧に耐え切れなくなってきていた。精神的に限界に達し、やめざるを得なくなった。

 

この時には社会から決別する意で動き始めた。自分は社会不適合者だ。一面を見ると完全にそうだった。だけどもこんな自分は健全だ。嫌なことはしたくない。その揺るぎない不動の心は当時既に宿っていた。ワープアウトした時と同じ。自分が納得のいかないことを惰性で続けることが何より苦しかった。だけれども この時の自分には育てていかなければいけない子どもがいた。

 

人生で2度目の彷徨いを始めたけれど、間も無くして ハッと気がついた。決別したつもりの社会もまた同じ社会であること。何処へ逃げようと1枚の社会だということ。逃げた先に都合良く浄土が顕れるわけじゃない。。。。。完全に目が覚めたところですぐに社会へ復帰した。もう迷いはなかった。

 

次はもう  頭と心を使わない仕事をしようと、身体が資本の労働を探した。かなりの早朝から夜遅くまで 大変だったけれど、このことが家族の関係を好転させた。これまでどうにか保育所の時間の枠内の仕事で親に頼ることなく来ていたのが、大幅に保育所の枠外の仕事になり、思いがけずに父が送迎の協力をしてくれるようになった。ありがたかった。

 

この時には自分の中の凝り固まったものが寛解していたように思う。そしてお付き合いをしていた人(現在の夫)の子を授かった。この時、彼は彼の事業で追い込まれていた。取引先が夜逃げをしてしまい、下請けをしていた彼に多額の支払い義務が生じてしまったのだった。

 

そんな中だったので、結婚したいとか、したくないとか、そんなことはどっちでも良かった。授かった命を育んでいきたい。出来れば彼も支えていきたい。そんな使命にも似た感情が芽生えていた。

 

 

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